福島第一の3号機が営業運転を開始した1976年に生まれた同級生のお二人、鵜沼友恵さんと大沼勇治さん。
その日のうちに避難した大沼さんは「余震も激しく、原発も心配だったので会社のある南相馬で野宿。次の日には爆発したので帰宅できなくなった」。鵜沼さんは3キロ圏内だったが、原発が爆発するとは思わなかったと。
双葉町の標語は自分で書き換える
大沼さんは、小学生のころ双葉町の商店街入口の標語を作った方。事故後、自分の書いた標語を書き直せるのは自分しかいないと、帰るたびに訂正した標語の写真を写している。
「原子力破滅未来のエネルギー」「原子力明るい未来……じゃなかった」「原子力制御できないエネルギー」などの写真を見せていただいた。私も、今年の9月の亀戸の「さよなら原発1000万人アクション」のデモで、「原子力破壊未来のエネルギー」のプラカードを持っている人を見かけたがその人が大沼さんだったのだ。
| オレンジの主催者側Tシャツで 書き直し標語を持って歩く大沼さん(9/23亀戸) |
「豊田市や日立市のような企業城下町の感覚だった」でも危ないものがあることはわかっていたし、遠足で広報館に行って安全だというので、信じていた。「実家の畑は原子炉建屋のすぐそばだったけど、もし爆発したら危ないけど、こんなに近ければ、死んじゃうから……」と鵜沼さん。
「標語を書く前年、『はだしのゲン』を読んで、原発は危ないとか、チェルノブイリで原爆・原発・放射能という図式は、感じていた。でも、それは口に出してはいけないこと。釣り大会への出場を母に止めらたことを釣具屋さんに話すと、そんなことを言ってはいけないと言われたし、親戚の葬式では、反対派と推進派が喧嘩していた」
鵜沼さんも近所では、決して危ないとか反対とかは言わなかった。言ったら生活できないという。
鵜沼さんも近所では、決して危ないとか反対とかは言わなかった。言ったら生活できないという。
堀切さんは、避難してきた人、だれに聞いてもふるさとに戻りたいと、ふるさとに行きたいというと。それは、お年寄りばかりでなく、若い人も子どもも同じだそうだ。鵜沼さんは、埼玉県に避難してきた。「山や海を見たい。帰れば、必ず海に行く」と。双葉の海でなければ海ではないと。
今日のキーワードは、「ランドセル」と「小学校校歌」
鵜沼さんのお嬢さんは「こちらで新しいランドセルをもらって嬉しかったけど、私のランドセルは双葉の小学校にある」というそうだ。そして、周りの子どもたちもだが、誕生日が来るたびに「あと何年でうちに帰れる」と喜ぶという。一時帰宅出来る歳を指折り数えて待っている。大人は、帰るたびに荒れていく家や畑を見ているので、諦めもつく。でも子どもは……。もし、町が中間貯蔵施設になったとしたら、そこの子どもは、一度も見ることができないから、諦めのつけようがない。
大沼さんは、初めての一時帰宅の時、もう帰れないかもしないと、ふるさとの思い出として小学校に行く。「息子も通うはずだった小学校」の校歌を歌いながら。一年後、自分の町の桜が見たいと町に申請して、見に行った。高台に昇って町の桜をカメラに収める。
選挙に話を振ると鵜沼さんは、県外避難者は締めつけが厳しくなっている。選挙では、「皆さんの財産と生命を守ります」と公約するのに、被選挙民のだれもが守られていない。命を預けられる人はいないという。
人生最大の断捨離だった
大沼さん「成功したものからは何も得せれないけど、失敗からは、多くのことを得られる」と。
鵜沼さんも「これまであった“まずいこと”に気がついたこと。そし“てまずいこと”は“まずい”と言えるようになったこと。もう一つは、たくさんの素敵な人に出会えたこと。失ったからこそ、得られたものがあった。人生最大の断捨離だった」。そして「最近、そういう冗談が言えるようになった」と素敵な笑顔で笑う。
鵜沼さんも「これまであった“まずいこと”に気がついたこと。そし“てまずいこと”は“まずい”と言えるようになったこと。もう一つは、たくさんの素敵な人に出会えたこと。失ったからこそ、得られたものがあった。人生最大の断捨離だった」。そして「最近、そういう冗談が言えるようになった」と素敵な笑顔で笑う。
充実の1時間だった。
0 件のコメント:
コメントを投稿