2014年10月26日日曜日

レイバーネットTV76号が尾を引いている

ここより進入禁止のゲート前(飯舘村2012年)

【レイバーネットTV76号が尾を引いている】

「双葉の子どもたちは、誕生日が来るたびに「あと何年でうちに帰れる」と喜ぶ」という言葉に、不意を衝かれた。一瞬意味がわからなかった。
一時帰宅に様々な制限、決まりごとがあり、年齢制限もそのひとつ。

意味がわかったとき、涙が……。考えても見なかった。被災した方たちの深い闇、想像できない闇を見た感じがした。
知り得ない体験、それを「最大の断捨離。失ったものが大きいだけに得るものも大きい」と笑えるたくましさ。この前向きさ!!! 
じっとしていると、この番組のことが押し寄せてきて、ほかのことを全て押し流す。津波のように……。いや、軽々とそんなことは言えない!!!


ある小学校の校庭にあった放射能測定機器
2012年8月

2014年10月23日木曜日

レイバーネットTV76号 花森安治の「見よぼら一銭五厘の旗」をく読む


2012-10-13さよなら原発 ドラム隊妹尾さん
by大木晴子


76号に出演する堀切さんから、花森安治の「見よぼくら一銭五厘の旗」を読んで欲しいと頼まれる。
私としては、あまり有名ではない人の詩を読みたいと思っているし、これは長すぎる(制限時間3分)と、断るつもりで一応読んでみた。

ところが、読み返すたびに、引き込まる。気がつけば、読まなければと、抜粋作業をしていた。

いくら、以前にそういう仕事をしていたとは言え、プロのしかももう亡くなって確認のとれない人の文章をいじるのは、気が引けた。

でも、伝えるために、全文を読むきっかけになるためにと言い聞かせて、3分の1位に縮めた。

もう一つ、読もうと背中を押されたのは、原発反対の現在のデモで、若い人が一銭五厘の旗を掲げている写真を、仲間のブログで見つけたことだった。

解説をざっと書いた。そして読んだ。
特集の心にしみるような、双葉町の若い人たちの気持ちを聞いた。お二人は、まさに一銭五厘を地で行っていた。ここにも花森安治を継承する若者がいると思った。
私も一銭五厘の旗を作って掲げようと。

困ることを困るとはっきり言う  何通でも書く   というフレーズは、現在にも生きている言葉だった。

抜粋したのは下記 


全文は
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/guest/publication/hanamoriyasuji.html



見よぼくら一戔五厘の旗 ()
            
        花森安治


美しい夜であった
もう 二度と 誰も あんな夜に
会うことは ないのではないか
空は よくみがいたガラスのように
透きとおっていた
空気は なにかが焼けているような
香ばしいにおいがしていた
どの家も どの建物も
つけられるだけの電灯をつけていた
それが 焼け跡をとおして
一面にちりばめられていた
昭和20815
あの夜
もう空襲はなかった
もう戦争は すんだ
まるで うそみたいだった
なんだか ばかみたいだった
へらへらとわらうと 涙がでてきた

軍隊というところは ものごとを
おそろしく はっきりさせるところだ
星一つの二等兵のころ 教育掛りの軍曹が 
突如として どなった
貴様らの代りは 一戔五厘で来る
軍馬は そうはいかんぞ
聞いたとたん あっ気にとられた
兵隊は 一戔五厘の葉書で いくらでも
召集できる という意味だった
(じっさいには一戔五厘
かからなかったが……)
そうか ぼくらは一戔五厘
〈草莽(そうもう)の臣〉
〈陛下の赤子(せきし)
〈醜(しこ)の御楯(みたて)
つまりは


一戔五厘
ということだったのか
そういえば どなっている軍曹も 
一戔五厘なのだ 一戔五厘が 一戔五厘
どなったり なぐったりしている
 
一戔五厘を べつの名で言ってみようか
<庶民>

いま 日本中いたるところの 
倉庫や 物置きや 押入れや 行李の
隅っこのほうに
ねじまがって すりへり 凹み 欠け
おしつぶされ ひびが入り 錆びついた
〈主権在民〉とか〈民主々義〉といった
言葉のかけらが
つっこまれたきりに
なっているはずだ
(過ぎ去りし かの幻覚の日の おもい出よ)

もう〈文化国家〉などと たわけたこと
はいわなくなった
そのかわり 高度成長とか 大国とか
GNPとか そんな言葉を やたらに
まきちらしている
 
書く手もにぶるが わるいのは あの
チョンマゲの野郎だ
あの野郎が ぼくの心に住んでいるのだ
(水虫みたいな奴だ)
おまわりさんが おいこら といったとき 
おいこら とは誰に向って
いっているのだ といえばよかったのだ
それを 心の中のチョンマゲ野郎が
しきりに袖をひいて 目くばせする
(そんなことをいうと 損するぜ)
ほんとは あのとき

家来の分際で 主人をバカにするな 
といえばよかったのだ
ザマはない

さて ぼくらは もう一度
倉庫や 物置きや 机の引出しの隅から
おしまげられたり ねじれたりして
錆びついている〈民主々義〉を 探しだ
してきて 錆びをおとし 部品を集め
しっかり 組みたてる
民主々義の〈民〉は 庶民の民だ
ぼくらの暮しを なによりも第一にする
ということだ
ぼくらの暮しと 企業の利益とが 
ぶつかったら 
企業を倒す ということだ
ぼくらの暮しと 政府の考え方が 
ぶつかったら 
政府を倒す ということだ
それが ほんとうの〈民主々義〉だ
  
今度こそ ぼくらは言う
困まることを 困まるとはっきり言う
葉書だ 七円だ
よろしい 一戔五厘


が今は七円だ
七円のハガキに 困まることをはっきり
書いて出す 何通でも じぶんの言葉で
はっきり書く
七円のハガキに 何通でも書く
 
ぼくらは ぼくらの旗を立てる
ぼくらの旗は 借りてきた旗ではない
ぼくらの旗のいろは
赤ではない 黒ではない もちろん
白ではない 黄でも緑でも青でもない
ぼくらの旗は こじき旗だ
ぼろ布端布(はぎれ)をつなぎ合せた 
暮しの旗だ
ぼくらは 家ごとに その旗を 
物干し台や屋根に立てる
見よ
世界ではじめての ぼくら庶民の旗だ
ぼくら こんどは後(あと)へひかない
(8号・第2世紀 昭和4510)

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読むための解説

今日は、花森安治の
「見よ ぼくら 一銭五厘の旗」を、抜粋して読みます。

高度成長期に足を踏み入れた1970年、花森安治は、この詩を「暮しの手帖」の編集方針宣言のように書いたのです。
病気除隊後、「欲しがりません勝つまでは」の標語を選んだり、国策広告の仕事をしていたこと
敗戦直後に見た民主主義の幻から目覚めた70年、愕然としながらも、今度こそはっきりものを言っていこう、自分たちの旗を揚げようと呼びかけています。
それから40年以上、主権者が逆転しているのは、変わりませんが、あちこちに旗はあったのです。
この写真は、ドラム隊の若者が、さよなら原発のデモ集会に旗を掲げているところです。意思は引き継がています。


本編は、今回読む3倍以上あります。ネットにも上がっているので、ぜひ全文を読んでいただきたいと思います。
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【レイバーネットTV76号報告】今フクシマを考える~原発の町・双葉町民が思いを語る 2014/10/22

2014年10月14日火曜日

「鶴彬ってだれ?」永田浩三さんのお話 (2014/9/27)


当日配らた資料 充実した内容だった
 高円寺南9条の会主催の「鶴彬ってだれ?亅に行く。なるほど、権力に楯突いて自説を曲げずに17音字の川柳に世の中の理不尽を吐いていった鶴彬である。9条の会が、言論が弾圧されそうになっている今の時期に、取り上げるのは的を射ていると一人納得して、出かけることにした。
 プログラムは映画「鶴彬 こころの軌跡亅と永田浩三さんのお話で、映画の方は、一度見たので、軽い気持ちだった。ところが、この映画がよかった。

 以前に見てから5年ほど経ち、秘密保護法やら集団的自衛権などときな臭くなったし、労働現場もまるで鶴彬の時代と同じようで、戦前の「使用人」感覚、下手すると、奴隷労働に逆戻りしている感のあるこの頃だからか、あるいは、先日鶴彬の故郷を訪ね、鶴彬を身近に感じるようになったからか、いや、両方だろう。思わず知らず、鶴彬の気持ちに入り込んで見てしまった。

 永田さんは、川柳は笑いと共感の文学であると規定し、私も参加しているレイバーネット川柳班が編纂した2冊の川柳句集『ガツンと一句』と『原発川柳句集』さらに、近年の川柳出版界の動向にふれ、川柳に託して今の世の中を切り取り、さらに食い込んでいくことが、求められているのではないかということだった。


永田浩三さん 
私たちの本 『ガッンと一句』
鶴彬の章の一部を引用

鶴彬・抵抗する17文字

 まず、「タマ除けを産めよ殖やせよ勲章をやろう」を作った1937年は、死の前年の作品で盧溝橋事件があり、日中戦争へと進んでいった。南京大虐殺があったのも、この年である。そんな時勢の中で、鶴彬は本質を射抜いて容赦なく、穴を穿っていったと指摘する。

 そのあと、192415歳の時に初めて世に問うた作品から、1937年の死の前年の遺作までを取り上げた。ここには、そのいくつかを取り上げる。

弱きものよより弱きを虐げる (1924)

じわじわと不穏な雰囲気が広がってきていて対華21箇条の要求を突きつけている。

仏像を爪(つま)んで見ると軽かった (1925)

鶴彬の育った北陸は、親鸞の浄土真宗の国で、何句か仏は助けてくないという句を残している。

めらめらと燃ゆは焔か空間か (1926)

大逆事件があり、そのあとに作らた謀反の川柳である。

働けばうずいてならぬ……のあと (1935年)

この……は、本人自らが伏字にしたものという。当時、あからさまな性描写は伏字にされたが、この句は、本人が伏字にしているところに意味がある。「拷問」という語句が入るのかもしれない。

母国掠め盗った国の歴史を復習する (1936年)

 鶴彬は、一時期日雇いとして朝鮮人労働者とともに働いたことがある。その為にリアリティーを持って、日本が植民地政策として彼国に課してきた政策を厳しく批判している。
 他にもいくつかの句の解説とともに当時の世相をリンクさせ、彼の精神のありようが語られ、聴く者に浸透していくのを感じた。

 最後に、鶴彬の最初の2句に戻って、

燐寸の棒の燃焼にも似た生命   (1925)
静かな夜口笛の消える淋しさよ  (1925)

の2句は、15歳の時の作品にもかかわらず、まるで鶴彬本人の人生を言い当てているようだと指摘した。

治安維持法の時代

鶴彬に関する本
 その後、1918年から1943年の宗教者の獄死までの、治安維持法をめぐる時代的検証を行った。
 国際的には、第1次世界大戦後、英米主導になっていた。国内では、富山から始まった米騒動に端を発して、民本主義や社会主義、農民・女性・部落などの運動が広がった。ところが、1923年の関東大震災があった6日後の9月7日には、治安維持令がだされ、朝鮮人虐殺事件が起きたのである。その、治安維持令が後の治安維持法の原型になり、さまざまな人々が、獄に繋がれる。その中で、鶴彬も命を落とすことになったと。
 お話を伺いながら、私たちが直面しているこの時代の危うさを、ひしひしと感じた。


物言えぬ社会を川柳で穿つ

 最後に投げかけたのは、「天下の悪法である治安維持法を廃止し、思想犯の解放をしたのは、日本人ではなく、GHQの命令だった。市民の手で行われなかった。そのことを、しっかりと考えてみたい。日高六郎さんが言っていたが、フランスだったら、敗戦(戦争終了)と同時に、市民がバスティーユに駆けつけて開放したであろう」と。
 折しもさいたま市の図書館で起きた俳句「梅雨空に九条守れと女性デモ」の掲載中止事件や、A新聞の誤報を巡って他のマスメディアが叩き続けている現状。それは1930年代と同じで、今後モノが言えない雰囲気を作り、お上の意向を忖度して本当のことを言わない社会を作っていくだろう。そういう時代だからこそ、今、川柳の「ユーモア」「諧謔」が求められると、締めくくった。

マスクして人の流れを逆に行く
 この川柳の作者、永田暁風さんは関西で活躍されている方で、永田浩三さんの伯父さんに当たる方だとか。 永田浩三さんご本人も作句をなさったらとお誘いしたが……。
                                                 笠原眞弓


2014年10月10日金曜日

有機食品がどこでも買えるということ



経堂ピーコックの有機コーナーby郡山

有機食品がどこでも買えるということ

郡山昌也さんのFacebookに触発されて有機食品の小売について

---------ここより引用-----------------------
経堂(小田急線)のピーコックに、突如「オーガニック・コーナー」が登場!統一されたライトグリーンにOrganicの文字がデザインされたパッケージの商品群で、PBなのか(親会社のイオンの)緑のトップバリューのサインも棚に出ていました。これは、全国的な動きなのでしょうか?僕が1998年にイギリスのエマーソンカレッジ(Emerson College)に最初の留学をした際に住んでいた、ロンドンから電車で1時間ほどのイーストグリンステッドという町にあった大手スーパーチェーンの「テスコ(Tesco)」で初めて見た光景を思い出して、思わず写真を撮ってしまいました。英国に遅れること16年。日本にもついにオーガニックの時代が来た?
            -----------引用ここまで--------------

この記事を読んだとき、日本ではどうだろうか、最近旅行したEUではどうだったかと、思った。

私の少ない経験から、ヨーロッパでは、有機生産物専門のスーパーマーケットもあるが、ごく普通のスーパーマーケットでも気軽に有機食品が買える


デンマークのスーパーマーケット
初めてデンマークのスーパーマーケットで「Bio」「エコロジー」と書いた野菜や乳製品、ワインなどを見たときは、感動したが、あちこち、どこでもあることがわかった。


広大なエコロジー(有機)野菜売り場
デンマーク
普通のマーケットの中の3つ並んだ
エコロジーの食品棚  デンマーク


今夏に行ったドイツでも、ちよっと寄ったフランスの牧場脇の小さなチーズ屋さんも有機だ。「ところでこのチーズの原料は?」と尋ねれば、「あそこ」と指差すその先に、牛たちが、草をはんでいる。つまり、牧草にも農薬は撒かず、化学肥料もやっていないということだ。
まぁ、日本でも同様のところもあるだろうが、まちのパン屋さんでも普通の商品に並んで、Bioのパンがあるし、専門店もある。あまりに普通で、写真を撮るのを忘れたくらいだ。
ドイツのミュンスターでは、日曜に市が立つが、そこにも当然Biotがある。
そこでドイツの一人暮らしの若者に、聞くと、「お金のあるときはBioね、ないときは普通の」との答え。やはり少し高いようだ。




山の中のチーズ屋さん
「AB」は、フランスの有機マーク ミュンスター

そこチーズの原料の牛
EUでは、10年経なければBioと言えない

観光地のお土産屋さんもBio フランス・アルサス地方
ミュンスターの日曜市有機野菜のテント ドイツ

同じく肉屋さん ドイツ

はちみつもBio  ドイツ

なぜヨーロッパではBio食品が、あれだけ気軽に買えるのか、なぜ日本では、コーナー(ほとんどが野菜だけの)ができても、いつの間に縮小し、特に葉菜類は、ほとんどなくなり、根菜など日持ちのするものになってしまうのか。なぜ、あっちの棚、こっちの棚に有機食品が分散されているのか。需要が確立するまでは、野菜だけでなく、調味料から加工品までの有機コーナーがあると利用しやすい(それが冒頭の写真のように、有機を集めてコーナになった)。売らんかなのやり方は嫌いだけど、提携できた野菜が切れたり、提携では来ないものを買おうとしても、普通の売り場の商品だと考えて、決心して買わなければならない。農薬情報が皆無だから……。見ていると、お店が本当に有機食品を売りたいのかどうかも、わからなくなってくる。

この経堂の写真を見ると、生鮮食品が見当たらない。ただ見えないだけか、扱いはべつの場所か気になるところだ。
このような売り場も経過観察が必要なのではないか。1年後に同じスペースが確保されているか、拡大したか、品揃えは増えたか……。
ただ、危惧されるのは、このように大手資本が入り、ブランド化したとき、規格品でないと流通が受け付けないということ。加工品ならまだいいが、フレッシュな農産物は、どうなるのだろうか。町の小さな有機の店も、最低限の規格を設けている。それに該当しなかった作物は、加工品に回したり、畑に戻したりしている。ある有機農家で、山積みされた規格外農産物を見て、複雑な気持ちになったことがあった。

流通が入ることで、たくさんの矛盾が出てくるだろう。しかし、これからは有機農産物の時代だと思っている。そのためにも、矛盾は少なくして、誰でも好きな時に欲しいモノが買える有機のマーケットが欲しい。もし、本当にTPPが施行されたら、多分消費者が市場を育てていかなければ、満足のいく品は手に入らなくなるのだと思う。