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2014年10月14日火曜日

「鶴彬ってだれ?」永田浩三さんのお話 (2014/9/27)


当日配らた資料 充実した内容だった
 高円寺南9条の会主催の「鶴彬ってだれ?亅に行く。なるほど、権力に楯突いて自説を曲げずに17音字の川柳に世の中の理不尽を吐いていった鶴彬である。9条の会が、言論が弾圧されそうになっている今の時期に、取り上げるのは的を射ていると一人納得して、出かけることにした。
 プログラムは映画「鶴彬 こころの軌跡亅と永田浩三さんのお話で、映画の方は、一度見たので、軽い気持ちだった。ところが、この映画がよかった。

 以前に見てから5年ほど経ち、秘密保護法やら集団的自衛権などときな臭くなったし、労働現場もまるで鶴彬の時代と同じようで、戦前の「使用人」感覚、下手すると、奴隷労働に逆戻りしている感のあるこの頃だからか、あるいは、先日鶴彬の故郷を訪ね、鶴彬を身近に感じるようになったからか、いや、両方だろう。思わず知らず、鶴彬の気持ちに入り込んで見てしまった。

 永田さんは、川柳は笑いと共感の文学であると規定し、私も参加しているレイバーネット川柳班が編纂した2冊の川柳句集『ガツンと一句』と『原発川柳句集』さらに、近年の川柳出版界の動向にふれ、川柳に託して今の世の中を切り取り、さらに食い込んでいくことが、求められているのではないかということだった。


永田浩三さん 
私たちの本 『ガッンと一句』
鶴彬の章の一部を引用

鶴彬・抵抗する17文字

 まず、「タマ除けを産めよ殖やせよ勲章をやろう」を作った1937年は、死の前年の作品で盧溝橋事件があり、日中戦争へと進んでいった。南京大虐殺があったのも、この年である。そんな時勢の中で、鶴彬は本質を射抜いて容赦なく、穴を穿っていったと指摘する。

 そのあと、1924年15歳の時に初めて世に問うた作品から、1937年の死の前年の遺作までを取り上げた。ここには、そのいくつかを取り上げる。

弱きものよより弱きを虐げる (1924年)

じわじわと不穏な雰囲気が広がってきていて対華21箇条の要求を突きつけている。

仏像を爪(つま)んで見ると軽かった (1925年)

鶴彬の育った北陸は、親鸞の浄土真宗の国で、何句か仏は助けてくないという句を残している。

めらめらと燃ゆは焔か空間か (1926年)

大逆事件があり、そのあとに作らた謀反の川柳である。

働けばうずいてならぬ……のあと (1935年)

この……は、本人自らが伏字にしたものという。当時、あからさまな性描写は伏字にされたが、この句は、本人が伏字にしているところに意味がある。「拷問」という語句が入るのかもしれない。

母国掠め盗った国の歴史を復習する (1936年)

 鶴彬は、一時期日雇いとして朝鮮人労働者とともに働いたことがある。その為にリアリティーを持って、日本が植民地政策として彼国に課してきた政策を厳しく批判している。
 他にもいくつかの句の解説とともに当時の世相をリンクさせ、彼の精神のありようが語られ、聴く者に浸透していくのを感じた。

 最後に、鶴彬の最初の2句に戻って、

燐寸の棒の燃焼にも似た生命   (1925年)
静かな夜口笛の消える淋しさよ  (1925年)

の2句は、15歳の時の作品にもかかわらず、まるで鶴彬本人の人生を言い当てているようだと指摘した。

治安維持法の時代

鶴彬に関する本
 その後、1918年から1943年の宗教者の獄死までの、治安維持法をめぐる時代的検証を行った。
 国際的には、第1次世界大戦後、英米主導になっていた。国内では、富山から始まった米騒動に端を発して、民本主義や社会主義、農民・女性・部落などの運動が広がった。ところが、1923年の関東大震災があった6日後の9月7日には、治安維持令がだされ、朝鮮人虐殺事件が起きたのである。その、治安維持令が後の治安維持法の原型になり、さまざまな人々が、獄に繋がれる。その中で、鶴彬も命を落とすことになったと。
 お話を伺いながら、私たちが直面しているこの時代の危うさを、ひしひしと感じた。


物言えぬ社会を川柳で穿つ

 最後に投げかけたのは、「天下の悪法である治安維持法を廃止し、思想犯の解放をしたのは、日本人ではなく、GHQの命令だった。市民の手で行われなかった。そのことを、しっかりと考えてみたい。日高六郎さんが言っていたが、フランスだったら、敗戦(戦争終了)と同時に、市民がバスティーユに駆けつけて開放したであろう」と。
 折しもさいたま市の図書館で起きた俳句「梅雨空に九条守れと女性デモ」の掲載中止事件や、A新聞の誤報を巡って他のマスメディアが叩き続けている現状。それは1930年代と同じで、今後モノが言えない雰囲気を作り、お上の意向を忖度して本当のことを言わない社会を作っていくだろう。そういう時代だからこそ、今、川柳の「ユーモア」「諧謔」が求められると、締めくくった。

マスクして人の流れを逆に行く
 この川柳の作者、永田暁風さんは関西で活躍されている方で、永田浩三さんの伯父さんに当たる方だとか。 永田浩三さんご本人も作句をなさったらとお誘いしたが……。
                                                 笠原眞弓


2014年10月3日金曜日

〈報告〉鶴彬の生地訪問 

     石川県かほく市の碑前祭に参加して(2014/9/14)


高松歴史公園内の鶴彬の句碑
枯芝よ団結をして春を待つ

鶴彬は(1909~1938)、第2次世界大戦中に投獄され、赤痢に感染して29歳の若さで手錠をベッドにくくりつけられたまま、病院のベッドで死んだ、プロレタリア川柳人である。また日本無産者芸術連盟の会員でもあった。

手と足をもいだ丸太にしてかえし      (1937年・28歳)
軍神の像の真下の失業者
地下にもぐって春へ春への導火線     (1935年・26歳)
貞操を為替に組んでふるさとへ
吸いに行く 姉を殺した綿くずを

など、どれもが鋭く息苦しくなる。

鶴彬の命日である9月14日に、石川県の彼の生地、かほく市高松で行われた碑前祭に参加した。同行者は、レイバーネット川柳班と「東京鶴彬顕彰会(鶴彬の終焉の地近くに、句碑を建てる)」、11月に鶴彬のお芝居を上演する俳優さんたちの10人である。

▼碑前祭

碑前祭の行われた高松歴史公園には、鶴彬の20句を超える句がロープに下げられ、句碑の前には遺影が置かれている。
鶴彬を顕彰する会会長 長谷久人さん挨拶
 碑に刻まれた句は、

枯れ芝よ団結をして春を待つ       (1936年・27 歳)

である。
 地元の鶴彬を顕彰する会会長に続き、親族代 表として甥の喜多義教さんの挨拶とすすむ。
 驚いたのは、市長の挨拶があったこと。

文明とは何骸骨のピラミッド
万歳とあげて行った手を大陸において来た                    (1937年・28歳)
屍のないニュース映画で勇ましい                          (1937年・28歳)

東京鶴彬顕彰会を代表して乱鬼龍さんの挨拶
こんな句を吐く人の碑前祭に、埼玉の「梅雨空に九条守れと女性デモ」という俳句が公民館報への掲載を拒まれるような右傾化していく自治体の多い時勢の中で、代読とはいえ、市長が言葉を寄せている。やはり、地元の名士として、誇りに思っているのだと勝手に思う。

しかし、あとで聞けば、市長の挨拶をもらえるようになったのは近年のことで、市民の合意がないとできないと言われていたそうだ。昨年から川柳を公募したり、小学4年生と中学2年生に、授業として川柳を作る指導をしたりして、少しずつ市民権を得てきたという。学校では、作文と違い、短い言葉で言いたいことを凝縮することが、国語の読解力につながり、全体の成績にも影響してきたと聞いた。



鶴彬の碑前祭は続く。公募した鶴彬川柳の大賞の発表が姪の城戸寿子さんからあった。


大賞
自衛権軍靴の響き近くなる  池永 龍生 


入選句

優秀賞、佳作が読み上げられた。
続いて、句碑に刻まれた句の、献吟が行われた。5名の地元吟詠会の朗々とした声が、汗ばむほどの秋の空に昇っていった。参会者による献花のあと、同時代のしかも同じ29歳で特高によって殺された小林多喜二の映画『時代を撃て・多喜二』が上映された。古い映画だが、素晴らしいもので、見ているうちに、名前も似ているし(鶴彬の本名は、喜多一二)、二人の生涯がダブってしまい、頭の中がごちゃごちゃになったのには、困った。



▼生家跡訪問・交流会

生家跡の句碑
おもてなしを受ける
すぐ近くの生家跡を尋ねる。現在は喜多義教さんが住んでいらっしゃり、玄関脇には、母を詠んだ句碑がある。

可憐なる母は私を生みました      (1925年・16歳) 

とある。
「可憐なる」と言う言葉に、塊が喉につっかえる感じがしたのは、なぜなのか。 早くに父を亡くし、母の再婚で8歳できょうだいとともに伯父に引き取られた彼の気持ちを思う。新聞にデビューした15歳の時の3句の中に、母を読んだ、このようなものもある。

皺に宿る淋しい影よ母よ  (1924年・15歳)






















資料展で 姪の城戸寿子さんに説明を受ける



















この後行われた交流会は、地元の鶴彬を顕彰する会と11月に上演する鶴彬のお芝居の役者さんと私たち、レイバーネット川柳斑で和やかのうちに行われた。会場は、その日にあわせて開会した鶴彬資料展。展示内容は、ほとんどコピーだが、短冊や家族の写真など、1週間で終わってしまうのには忍びない充実した内容の展示だった。



 宿への道すがら、そぞろ歩いていると、門前に明かりの灯るところが。それが、もうひとつの句碑

胎内の動き知るころ骨がつき      (1938年・29歳)
 
のある浄専寺だった。


 
浄専寺の句碑
浄専寺の万燈会


浄専寺の万燈会

この句は、1938年11月に『川柳人』第281号に掲載された遺作である。その数ヵ月後(その年の12月とも年が明けてからとも言われている)永久の旅路についたのである。
その明かりは、8月のお盆の行事、万燈会のミニチュアを用意してくださっていたのだ。私たちもまだ灯っていない灯をともし、境内に現れた「和」という文字などを楽しむ。

▼金沢市内で遺品に触れ卯辰山の句碑を見る

 翌朝、金沢市内の石川近代文学館を訪ね、鶴彬の直筆葉書や写真などの遺品を見せていただく。ほとんど遺品のない中、川柳仲間(?)の渡辺尺蠼が保存していた鶴彬の手紙類が、鶴彬の温もりを感じさせた。就職の斡旋依頼だったり、生活苦の訴えや、寄稿の礼状など、彼の生活が、手に取るようにわかるものだった。

石川四高記念文化交流館・直筆葉書に見入る鶴彬のお芝居のキャストたち


そのあと、鶴彬が入隊した第九師団金沢歩兵第七連隊のあった金沢城址をめぐり、最後にもうひとつの句碑のある卯辰山公園に行く。


第九師団金沢歩兵第七連隊のあった金沢城址

全く道標もなく、わかりにくいところだったが、緑に囲まれて私たちを待っていた。刻まれた句は、

暁を抱いて闇にいる蕾    (1936年・27歳)


卯辰山の句碑の前で

蕾が抱く暁は、希望なのか絶望なのか、憲法の解釈を変えて、戦争の出来る国にしようとしている国で咲く花はなんなのだろう。


 2日にわたり、鶴彬を尋ね歩くうちに、文字でしかなかった鶴彬が、世の中の不平等を正したいとの思いで赤い血潮をたぎらせていた実在の人として、私の中に入り込んできたのだった。

 碑前祭を主催した鶴彬を顕彰する会のメンバーの中に、自民党や民社党、共産党の方々と、もちろん支持党を明言なさらない方など、超党派のあつまりであることも、鶴彬というプロレタリア文芸人を、地元の誇りとしていることが伝わった。が、しかし……今後もしっかりと鶴彬を守っていかなければならないと思ったのも、危機感を持っているからだろう。
                                              笠原眞弓